古墳時代の人々の生活


 古墳時代は支配者である豪族と被支配者である民衆の生活がはっきり分離した時代でもある。豪族は民衆の住む村落からはなれた場所に、周囲に環濠や柵列をめぐらした居館をいとなんだ。この居館は、豪族がまつりごとを執り行うばであり、生活の場でもあり、また余剰生産物をたくわえる倉庫群がおかれる場でもあった。
これに対して民衆の住む集落には環濠などはみられなくなる。集落は複数の竪穴住居と平地住居、さらに高床倉庫などからなる基本単位がいくつかあつまって構成される。5世紀になると竪穴住居にはつくりつけのカマドがともなうようになる。
土器は、古墳時代前期から中期の初めまでは、弥生土器の系譜をひく赤焼きの土師器が用いられたが、5世紀からは、朝鮮半島から伝えられた製作技術でつくられた硬質の灰色の須恵器が土師器とともに用いられた。
古墳の人物埴輪に表現されている衣服は、男性が衣と乗馬ズボン風の袴、女性が衣とスカート風の裳という上下にわかれたものが多い。
古墳時代の人々にとっても、弥生時代と同様、農耕に関する祭祀がもっとも大切なものであった。なかでも豊作を祈る春の祈年の祭りや収穫を感謝する秋の新嘗の祭りは重要なものであった。また人々は、円錐形のととのった形の山や高い樹木、巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などを神の宿るところと考え、祭祀の対象とした。
それらのなかには、現在も残る神社につながるものも少なくない。また氏の先祖神をまつることも行われるようになったらしい。



風習


 弥生時代に見られた土中の埋納する青銅器祭器はなくなったが、それにかわって銅鏡や鉄製の土器と農工具が重要な祭器の位置を占めるようになった。
また、5世紀になると、それらの品々の模造品を石などで大量につくって祭りに用いるようになった
けがれをはらい、災いをまぬかれるための禊や祓、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太古の法、さらに裁判にさいして、熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する盟神探湯などの呪術的な風習もさかんであった。



大王と豪族


 大和政権の政治組織は、時代とともにしだいに整備されていったと思われるが、6世紀以前の状況は文献史料からはほとんどあきらかにされていない。
ただ倭王武が中国の南朝におくった上表文や古墳出土の刀剣の銘文、さらに古墳のあり方などから、5世紀後半ころからその基盤はしだいに強化されていったらしい。
大和政権の中枢は、大王を中心に大和・河内やその周辺を基盤とする豪族によって構成されていた。豪族は氏とよばれる血縁的結びつきをもとにした組織で、それぞれの固有の氏の名を持ち、首長にひきいられて大和政権の内部で特定の職務を分担した。
大王は豪族に政権内での地位を示す姓をあたえて統制した。

 氏の名には葛城・平群・蘇我のように地名によるものや、大伴・物部・土師など職掌によるものがある。姓には臣・連・君・直・造・首などがあり、葛城氏や吉備氏のような一定の地域に基盤を持つ豪族には臣、大伴氏や物部氏のような特定の職掌を持つ豪族には連、筑紫や上毛野などの地方の有力豪族には君、一般の地方豪族には直の姓が与えられた。
大王は臣・連のうちとくに有力なものを大臣・大連に任じて政治にあたらせた。
 朝廷の政務や祭祀などのさまざまな職務は、伴造とよばれる豪族やそれをたすける伴によって分担され、伴造は伴や品部とよばれる人々をしたがえて、代々その職務に奉仕した。大陸の技術や文筆にたけた渡来人には伴造や伴となるものが多かった。

また有力な豪族は、それぞれ私有地である田荘や私有民である部曲を領有して、それらを経済的な基盤とした。また氏や氏を構成する家々には奴隷として使われる奴があった。
大和政権は、5世紀の終わり頃から地方に対する支配を強め、地方豪族の支配下の農民を大王家に属する名代・子代の部とし、また、屯倉とよぶ直轄地を各地にもうけ、田部とよばれる農民にその地を耕作させた。大和政権は、服属した地方豪族の一部に国造あるいは県主の地位をあたえ、従来の支配権を認めるとともに、屯倉や名代・子代部の管理に当たらせた。